対魔忍RPGショートストーリー『舞と災禍とふうまの本』

 七瀬舞がふうま小太郎に声をかけたのは、そろそろ図書室の閉館のベルが鳴り出そうかという時だった。
 G・ヴェルガの短編集『カヴァレリア・ルスティカーナ』を読み終え、作者の故郷であるイタリアのシチリア島、そこに住む人たちの厳しくて切ない人生に想いを馳せて、心地よい読後感に浸っていたら、ちょうど帰ろうとしている彼の姿が見えたのだ。
「ふうまさん、帰るんですか?」
 舞が声をかけてきたことに少し驚いたような顔をして、ふうまは頷いた。
「もうすぐ閉館だからね。七瀬さんは?」
「私もそろそろ帰ります。これ読み終わりましたし」
「じゃあ上まで一緒に行く?」
「はい。ちょっと待ってください」
 舞は自分の本を鞄にしまい、それ以外の図書室の本を端から指先でひと撫でした。紙気の力で本は浮き上がって、それぞれ元の本棚に戻っていった。
「便利だよなあ」
 もう何度も見ているというのに、今日も羨ましそうな顔で言う。
「はい、便利です」
 ふうまと初めて言葉を交わした日、閉館ぎりぎりに慌てて本を戻そうとしていた彼が床で転んでしまって、彼ではなく投げ出された本を助けた時のことを思い出し、舞はくすりと笑った。今日は時間に余裕をもって、本をちゃんと自分で返したようだ。
「お待たせしました」
 図書室は校舎の地下にある。
 閉館時間が来るとすぐ鍵をかけてしまう、せっかちな司書の横を抜けて、エレベーターが来るのを待つ。
 こんな風にふうまと一緒に――と言っても正門を出たらすぐに分かれてしまうのだが――ともかく二人で図書室を出るようになったのは、ここ最近のことだ。
 それまでは図書室で見かけるくらいで、忍術書や歴史書が好きなようだけれど、でもたまに本を広げたまま居眠りしていたりして、忍術が使えない目抜けのふうまの噂どおり不真面目な人かと思って声などかけなかった。
 ふうまも舞には気づいていただろうが、向こうから声をかけてくることもなかった。
 それが彼に魔術書の調査を頼まれたのがきっかけで、今ではなんとなく普通に話すようになった。
 それだけではなく、ふうまのおかげで、眞田焔という普段なら絶対に知り合うことのなかった年上のちょっと素敵な先輩とお友達にもなれた。
「ふうまさんの周りには色んな人が集まってくるの。私もそこに入れたらいいなあって」
 とは、クラスメートの篠原まり、まりちゃん先輩の言葉だ。彼女がふうまに密かに憧れているその理由が少しだけ分かった気がした。
 舞自身はふうまに特別な気持ちは抱いていない。男の人だけれど、それほど緊張しないで話せるお友達といった感じだ。
 ただ、好きな本の話とかすると楽しいので、いつか一緒に神保町の古本屋街にでも行けたらいいなとは思っている。
 でも、それってなんだかデートみたいで誤解されそうだし、まりちゃん先輩に悪い気もするので、まだ誘うことはできていない。
 だから、エレベーターでふうまがこう言ってきたときは、ちょっとドキッとした。
「七瀬さん、今度の日曜って空いてる?」
 今までこういうことに縁のなかった舞でも分かる。というか恋愛物では定番のお誘いのセリフだ。
 でも、どうしてふうまさんがいきなり? 私をそういう目で見ていたんですか? えっ? えっ!?
「今度の日曜ですか? 空いてますけど……」
 突然の言葉に平静を装おうとして失敗した。声がちょっと強張ってしまう。表情も少し硬くなっていたかもしれない。ふうまはそんな舞に気づいて慌てた風に言った。
「いや、ごめん。変な意味じゃなくて。こないだのお礼にふうまの書庫とか見てみたくない? ってそういう話なんだけど」
「あ、そういうお話ですか……」
 ほっとしたような、ちょっと残念なような気持ちで答えながら、その意味に気づいていっそう驚いた。
「ええっ? ふうまの書庫を見せて頂けるんですか? 本当にいいんですか? そういうのって一族以外には閲覧禁止なんじゃないんですか?」
 すごく早口になってしまう。デートのお誘いなんかよりよっぽどドキドキする。
 ふうまはいきなりテンションの上がった舞を面白がっているような顔で答えた。
「そりゃ一般公開するわけにはいかないし、さすがに全部は見せられないけど、まあ大丈夫な範囲でならね。こないだのお礼ってことで、どう?」
「はい、行きます! 絶対行きます!」

 

 そして日曜日。
 待ち合わせは十二時に稲毛屋だ。
 舞が約束の十分前くらいに来ると、ふうまはまだ来ていなかった。
「ちょっと早かったかな」
 稲毛屋のガラス戸に写る自分の姿をなんとなく確かめる。
 デートではないけれど、男の子に誘われたことには違いないので、身だしなみとして、いつもより少しお洒落をしている。
 ふわっと軽めの白いワンピースに、首元と頭には青いリボン。手首には白と青とで色を合わせたシュシュをつけて、靴は思い切ってヒールを少し高めのものにしてみた。これも色はブルー。
 靴を除いて、今日の装いには秘密があるのだけれど気付くだろうか。
 なんだか心が浮き立つのを感じながら待っていると、ふうまは時間ぴったりに現れた。
「七瀬さん、待った?」
「今来たところです。書庫はふうまさんのおうちにあるんですか?」
「いや、別のところ。ここから少し歩くかな。案内するよ」
 そう言って歩き出す。
 やっぱり女の子の服とか気づかないかな?
 そう思った矢先、ふうまは並んで歩く舞を何度か見て、おやっという顔になった。
「七瀬さん、その服ひょっとして紙でできてるの?」
「分かりますか?」
「ちょっと質感が違う気がしたから。ってことは、もしかして自分で作ったとか?」
「はい。可愛い服とかは買うと高いですから。私が着る分には紙気の力で肌触りも布と同じにできますし。さすがに何度も洗ったりは無理ですけど」
「その時はまた紙で作ればいいのか」
「そういうの好きなんです」
「本当に汎用性に飛んでるな、紙気の力。便利だなあ」
 ふうまはうんうんと感心しながら、舞の紙服を興味津々で見ている。
 すぐに気づいた観察眼はさすがだけれど、逆に可愛いとか似合ってるとか、普通なら口にしそうなことは言わないのだった。
 それが彼らしいとおかしく感じながら、舞はわざと意地悪な口調で聞いてみた。
「ふうまさん、なにか言うこと忘れてませんか?」
「え……?」
 ふうまはきょとんとし、急に勘が鈍くなって三秒ほど考えてから慌てて言った。
「あ、すごく似合ってるよ」
「遅いです」
「ごめん」
「もしこれがデートだったらもう失敗ですね。女の子帰ってますよ。はあ」
「厳しいなあ」
 大げさに溜息を吐いてみせると、ふうまは困ったように頭をかいた。舞はくすくす笑った。
 つまり、ふうまも舞のことを別に意識してないということだ。ごく普通の友達。舞もそっちの方が気が楽だった。
 だから、その後はいつもと同じ調子で、最近読んだ本のこととか、焔さんと国会図書館に行ったこととかお喋りしながら歩いて行った。
 少し暖かくなってきた陽射しがぽかぽかと気持ち良かった。

 

 ふうま一族の書庫は五車学園からちょっと離れた山の中にあった。
 先代のふうま当主、つまり彼のお父さんの別宅という話だったが、外観はごく普通の日本家屋だ。ちっともそれっぽくない。
 という思いが顔に出たらしく、ふうまが振り返って言った。
「普通の家だろう? 昔あった本宅の方はもっと忍者屋敷っぽかったんだけどね。書庫は地下にあるんだ。どうぞ」
「お邪魔します」
 ふうまに扉を開けてもらって中に入ると、そこに一人の女性が待っていた。
「七瀬様、いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 ものすごく綺麗な人に礼儀作法のお手本のような仕草で頭を下げられた。
「彼女はふうま災禍。この家と書庫の管理をしてもらってるんだ」
「こ、こんにちは」
 返事の言葉が少し上ずった。
 そういう人がいるとは聞いていたが、びっくりするほど素敵な人だ。
 細面で目鼻立ちの整った顔、背が高くて手足もすらりと長くて、サマーセーターに生成りのパンツというラフな格好がものすごく似合っている。お化粧は控えめで、長い黒髪もざっくり括ってあるだけだが、逆にそれができる大人の女性の休日という感じがする。
「七瀬様、どうぞ」
「ありがとうございます」
 さっと出してもらったスリッパに履き替えながら気づいた。玄関にはどう見ても今日生けたばかりという瑞々しい花が飾ってある。
「へえ、花なんか飾ったんだ」
 のんきな声を出すふうまに災禍が物腰静かに頭を下げている。
 ということは、やっぱりこの花は舞のために生けたのだ。そんなことをされたのは生まれて初めてだ。ちゃんとしたお客さんみたいで緊張する。
「俺たち書庫にいるから、飲み物となんか適当なお菓子でも持ってきてくれる? 俺はコーヒー。七瀬さんは何がいい?」
「わ、私も同じものを」
「かしこまりました」
 災禍はお淑やかでありながら、足音をまったく立てない、対魔忍の見本のような綺麗な所作で下がっていった。思わず目で追ってしまう。
「七瀬さん、どうしたの?」
「ものすごい素敵な人ですね」
「はは、そう? 言ってあげたら喜ぶよ。書庫は地下にあるんだ。こっちだよ」
 ふうまは軽く笑って階段を降りていく。舞の驚きが伝わっていないようだ。
 一緒に暮らしている時子先生もそうだけれど、ふうまの周りには年上の素敵な女性が多い。
 だからだろうか、独立遊撃隊を通して色々な女の子と知り合っているのに、特定の子と付き合っているという話は聞かない。
 これはまりちゃん先輩大変だなあなどと思いながら後をついて行く。
 だけど書庫に入った途端、そんな諸々の思いはいっぺんに吹き飛んでしまった。
「うわあーー」
 大口を開けてぽかんとしてしまう。
 そこは想像していた以上に立派な書庫だった。外は普通の家なのに、ここだけヨーロッパの大きなお屋敷の書斎のようだ。
 広さは十二畳くらい。四方の壁は全て本棚に囲まれている。天井がかなり高いので梯子付きの立派な本棚だ。壁と壁の間にも幾つもの本棚があって、それでも収まらない本が床から山積みになっている。
 それでいて狭苦しい印象はなく、立派な書斎机は大きくて使いやすそうだし、部屋の真ん中に置かれたテーブルもソファもゆったりとしている。天井近くの窓からは外の柔らかい日差しが差し込んできて、とても過ごしやすそうだ。
 ふうま一族の長い歴史を感じさせる沢山の本たちの香りが舞の鼻を素敵にくすぐってうっとりしてしまう。
「なかなか立派だろう?」
 ふうまはちょっぴり自慢げに言った。自慢したくなる気持ちは分かる。
「私ここに住みたいです」
「はは。俺も前はよく授業をさぼってここに来てたよ」
「いいなあ」
 舞は心の底からそう言い、ふうまと向かい合うようにソファに腰を下ろした。
「とりあえず七瀬さんが読みたそうなものを用意しておいたけど、他にもなんかあったら言って」
 そのふうまの顔も見られないくらい、舞は机の上の本から目が離せなくなっていた。名前しか聞いたことがないような本がずらりと並んでいる。
「『ふうま忍要秘記』に『ふうま忍法水鏡』に『忍術極意』。すごい。ずっと読みたかったんです。これオリジナルですよね。嬉しい。それでこっちは――えっ? ちょっと待ってください。『ふうま間諜目録』? これって現存したんですか? とっくの昔に失われたと思ってました!」
「俺もそう思ってたんだけどね、ちょっと前に虫干ししたときに本棚の隙間から見つかったんだ。これなんかもそうだよ。さすがの七瀬さんでも知らないだろう?」
「『乱波小太郎道中日記』? 知りません。聞いたこともないです」
「三浦浄心の『慶長見聞集』は知ってる? 江戸初期の随筆の。あれにふうまのことが書いてあるんだけど」
「知ってます。下総の盗賊の……ええと高坂甚内でしたっけ? 江戸のふうま一族が邪魔になって、同じ盗賊なのに幕府に密告したっていう」
「それそれ。史実では、というかうちの言い伝えでも、その時のふうま小太郎は幕府に捕まって処刑されたことになってるんだけど、実はそれを免れて幕府の追手や甚内の刺客と戦いながら、ふうまの里まで戻ったという、その日記」
「えっ!? そんなことが本当にあったんですか?」
 本当だったら歴史上の大発見だ。舞が目を丸くすると、ふうまは困ったような顔をしながら、
「いや、そういう体の小説っぽい。あまりにも荒唐無稽すぎるし、後になると武蔵坊弁慶とか那須与一の生まれ変わりとか普通に出てきて、悪霊として蘇った平将門と大忍術合戦を繰り広げたりするから。最後には江戸城が爆発炎上するし。それは嘘だろう」
「トンデモ架空戦記じゃないですか!」
 思わず突っ込んでしまう。
「そういうこと。これ書いたご先祖様はふうま小太郎と歴史上の豪傑をクロスオーバーさせたかったんだろうな。文才はあったみたいで馬鹿馬鹿しいけど面白いよ」
 そんなものが一族の書庫に残ってるなんて面白すぎる。今まで聞いたこともないから、きっとこの世にこれ一冊しかないに違いない。
 誰だかは分からないが、ふうまのご先祖様が趣味で書いてこっそり書庫に残しておいたのだ。子孫を面白がらせせるためか、ひっかけてやるためかは分からないけれど。
「忍者のかたわらオリジナル小説書きとは。ふうま一族やりますね」
「あんまり褒められてる気がしないなあ」
 神妙な顔で言うふうまに舞は吹き出していた。それを見てふうまも笑い出す。
「これ読むよね?」
「ぜひ読ませてください」
 舞は勢いよく頷いたが、いきなりそれから読み始めるのもおかしいので、まずは普通に『ふうま忍要秘記』を手にとった。
 年代物の和綴じの本を開くと、舞はすぐにその世界に没入していった。

 

 あ、いい匂い。
 コーヒーの芳香と共に甘い香りが漂ってきて、舞は読んでいた本から顔を上げた。
「お待たせしました」
 災禍が階段をしずしずと降りてくる。手に持ったお盆の上にはコーヒーと美味しそうなホットケーキが乗っていた。
「おっ、きたきた」
 ふうまは小さな子みたいに嬉しそうな顔になって、テーブルの本をいそいそと横に退けて空きスペースを作っている。舞も本を置いてそれを手伝う。
「ありがとうございます」
 災禍が持ってきたコーヒーとホットケーキを二人の前に並べた。
 最近流行りのふわふわのパンケーキではなく、昔ながらのしっかりとしたホットケーキだ。
 狐色にこんがり焼けた丸いホットケーキが二枚重ねられていて、その上に四角いバターがちょこんと乗っている。銀色のカップに入ったシロップまで添えられていた。
「わあ、万惣のホットケーキみたいですね」
 舞が思わずそう口にすると、ふうまは我が意を得たりとばかりに頷いた。
「やっぱり行ったことあるんだ」
「もちろんです」
 本好きの聖地、神保町。そのすぐ近くにある万惣は日本で初めてマスクメロンを扱った老舗の果物屋として有名だが、そこに併設されたフルーツパーラーのホットケーキもまた名物として知られている。
 舞の愛読書である『鬼平犯科帳』や『剣客商売』の作者、池波正太郎のエッセイにも何度となく述べられている。美味しいホットケーキを食べながら、神保町で見つけたばかりの本を読むのは幸せの一言だ。
「さすがに万惣さんには及びませんが、どうぞお召し上がりください」
「いただきます」
 うきうきしながら舞はホットケーキにバターを塗り始めた。ナイフが当たるカリカリと言う音が心地よい。
 バターを塗ったら、六等分してシロップを回しかけていく。急いではいけない。下の段までよく浸みこむように、ゆっくりたっぷりかけた。全部かけた。
 ホットケーキはこの食べる前の準備がたまらない。頬がどんどん緩んでしまう。
 そうしてからパクリとやると、外はカリカリ、中はしっとり、そこにシロップがじゅわっと染み込んだレトロな味が口いっぱいに広がっていった。
「ふあああ美味しい」
 思わず溜息が出てしまう。
「ありがとうございます」
 コーヒーもちゃんと豆をひいて煎れてくれたのだろう。ホットケーキによく合う。
「うん、美味いよ」
 舞の感激をよそに、ふうまはごく普通にパクパク食べていた。いつもの味で食べ慣れているのだ。こんな素敵なものを。ずるい。
 そんな彼を災禍は優しい目で見つめていた。ふうまの当主を見守る尊敬と慈愛に満ちた表情だ。
 素敵な人だなと思っていたら、机の脇に寄せていた本をふと見下ろした災禍がはっと顔色を変えた。
「わ、若様、いけません!」
「どうしたのいきなり?」
「どうしたのではありません。女性をお呼びするのに、こんな本を無造作に置いておくなんて!」
 災禍は舞を気にしつつ、ふうまを咎めるように、その“こんな本”を突き出した。
「あ、その本」
「七瀬さん、さっき読んでたよね?」
「はい、まだ途中でした」
「ええっ?」
 思わず口を挟んでしまった舞とふうまとのやりとりに災禍が驚く。
 その本は『ふうま流医心和合秘伝』。
 男女の交合によって養生を目指すための図解入りの技法書で、要するに房中術のガイドブックだ。
 今まで読んだことがなかったし、面白そうだったので、当たり前に広げていたが、よく考えたら少しはしたなかったかもしれない。
 そう思ったら、急に頬のあたりが熱くなってきた。思わず俯いてモゴモゴ言い訳してしまう。
「あ、あの、すいません。なんでもかんでも手当たり次第に読んでしまって。わたし本はなんでも読む方なので……」
「災禍は気を回しすぎだよ」
 ふうまが苦笑すると、災禍はぼっと火がついたように赤面していた。
「た、大変失礼いたしました。七瀬様、どうぞ続きをお読みくださいませ」
 と本を返してくれたが、そう言われてもすぐには読みにくい。
 災禍もあたふたしながら、その場を取り繕うようにこう聞いてきた。
「ええと、七瀬様は若様とどのようなきっかけでお知り合いに?」
「え? あ、はい。ふうまさんに本の調査を頼まれたのがきっかけです、はい」
「本の調査?」
「特殊な紙を使ってる魔術書でね。七瀬さんは紙気使いなんだよ。悪いけどちょっと見せてくれる?」
「あ、はい」
 とりあえずこの変な空気をなんとかしたい。
 舞は折り紙を取り出して、犬、ウサギ、それから蝶を手早く作ってみせた。
 指先で軽く紙気を送り込むと、犬はテーブルをトテトテと歩き出し、ウサギはぴょんぴょんと跳ね、蝶はヒラヒラと羽ばたき始めた。
「見事ですね」
 まだ顔は赤かったが災禍が感心したように言った。
「だろう?」
「素晴らしい術の制御です。さぞ鍛錬を積まれたのでしょう。感服しました」
「そ、そんな、私なんてまだまだです。でもありがとうございます」
 いきなり災禍に手放しで褒められて、舞は嬉しいよりも慌ててしまう。
「その本の調査でも七瀬さんの紙気の力に色々と助けられてね。それで今日誘ったってわけ」
「そうでございましたか。七瀬様、若様の力になっていただき、ありがとうございます。どうぞ今日はごゆっくりお過ごしくださいませ」
「は、はい」
 舞はこくこくと頷いた。
「災禍。またちょっと痛んでいる本があったから悪いけど早めに修繕しておいてくれる? そこに集めておいたから」
 ふうまは書斎机の本を指さして言った。
「かしこまりました」
 災禍はそう答えてから、ふと何かに気づいたように舞の方を見やって、ふうまに尋ねた。
「若様、お邪魔でしたらここではなく、上でやらせていただきますが?」
 躊躇いがちなその口調はなんだかまたすごく気を回されている感じだ。さっきの房中術の本のときの慌てぶりといい、ふうまとの仲を誤解されている気がする。
「別にここでやって構わないよ。七瀬さんはいい?」
「だ、大丈夫です」
 ふうまは全然気づいていないらしい。
 舞はまたこくこく頷くしかなかった。

 

 災禍が書斎に残って本の修繕を始め、ふうまと舞はまたそれぞれの本を読み始めた。
 最初は災禍の気配に緊張していたが、別にやましいことはなにもない。すぐにまた舞は読書に夢中になっていった。
 それからどれくらいの時間がたったろうか。
 向かいで本を読んでいたふうまがモゾモゾと動いたような気がして舞は顔を上げた。
 すると、いつの間にか寝てしまったふうまに災禍がタオルケットをかけているところだった。
「ふうまさん、寝ちゃったんですね」
「ここのソファは寝心地がいいらしくて。それにしても女性をお誘いしておいて居眠りとは、しょうがない若様ですね。七瀬様、申し訳ありません」
 そんな風に謝られて、舞は慌てて手を振った。
「ふうまさん、疲れているんじゃないでしょうか。独立遊撃隊の任務とかで。アサギ先生にも信頼されていて大変そうです」
「それは若様に仕える者として嬉しいことなのですが」
 あまり無理をして欲しくはない。災禍はそんな顔をしていたが、諦めたように小さく息を吐いて、また本の修理に戻っていった。
 舞はふと思いついて言った。
「災禍さん、よかったら本の補修のお手伝いをさせてくれませんか?」
「そんな。いけません。お客さまにそのようなことをさせては若様に叱られてしまいます」
「ふうまさんは寝ているから大丈夫ですよ。美味しいホットケーキをご馳走していただいたお礼です。それにわたし本を直すのはちょっと自信があるんですよ。紙気使いですから」
 机の上の折り紙、もう動かなくなっていたそれらに紙気を送る。犬とウサギと蝶はすぐに息を吹き返し、そうだそうだと言いたげにピョコピョコと動きだした。災禍が微笑んだ。
「分かりました。それではお願いします」

 

 書庫の本の大半は和紙で作られた和装本だ。
 和紙は世界一長持ちする紙と言われていて、現在出版されている本の主流である洋装本と比べて、その寿命は遥かに長い。千二百年以上前の正倉院の目録が当時とあまり変わらずに残っているほどだ。
 それでも長い年月のうちには、和紙が虫に食われたり、カビて弱くなったりする。本を閉じている糸が切れることもある。
 それで修繕を行うのだが、古い和装本はその内容だけではなく、本それ自体の形も含めて貴重な歴史的資料だ。
 だからなるべく元の形を変えないように、かつ安全な材料を使って修繕を行う。
 使うのも安全なものだけ、不純物や防腐剤が混じっていない和紙、小麦粉糊、絹糸、水、それくらいだ。セロテープやボンドなんてもってのほかだ。
 そして手間もかかる。
 例えば、虫食いを直すときは、まず本を閉じている糸を切ってバラバラにする。
 次に、直したい箇所にあった厚さ、色合い、風合いの和紙を選び、それを水で湿らせ、わざと手でちぎって、貼り付けるための小片を作る。
 それを虫食いの穴に合わせ、水で薄めた小麦粉糊で貼り、水分が完全に乾いてから、絹糸でまた製本し直すという、一箇所直すだけでも大変な作業となる。
 しかし紙気使いの舞は違う。
 そういったほとんどの過程を省略できる。
 穴にあった和紙を選んで補修片を作ったら、本をバラさず、水で濡らさず、糊も使わず、和紙の繊維を紙気で直に操ってくっつけてしまう。
 いい補修用の和紙が見つかれば、そこに虫食い穴があったことすら分からなくなる。
 手間は遥かに少なくて済むし、なにより水で濡らしたり、糊を使ったりしないので、補修をすることによる後のリスクもない。
 舞は災禍に手伝ってもらって次々と本を修繕していった。その鮮やかな手際に災禍はほとほと感心したように言った。
「さすが自信があると仰っただけのことはありますね。お見事です」
「ありがとうございます」
 舞はそう答えながら、補修用に予め様々な風合いの和紙を集め、それをリスト化し、その中から補修にぴったりのものをたちどころに見つけ出す災禍に深い尊敬の念を抱いていた。
 舞のは単なる補修技術だが、災禍のそれは書庫の管理人として、どれだけ誠実にやってきたかを示すものだからだ。ふうまが信頼するのも当然だ。
「七瀬様のおかげでもう少しで補修が終わりそうです」
「じゃあ終わったら一息入れませんか。またコーヒーでも。今度は災禍さんもご一緒に。ふうまさんはまだ寝てますし、お喋りもしたいですし」
「そうですか。ではお相手させていただきます」
 災禍は穏やかに微笑んだが、次の瞬間、はっとした顔で立ち上がった。
「急にどうしたんですか?」
 そこまで言って舞も気づいた。
 ふうまが寝ているソファの向こうの壁、黒くて鍵のかかった本棚から魔の気配が立ち上っている。
 その黒い本棚の本だけは悪いが見せられないとふうまは言っていた。一族だけの秘密と言うよりも、扱いの難しい魔界の本があるからだと。
 とすると、突然のこの気配の正体は、
「まさか妖紙魚(ようしみ)ですか?」
「おそらく。先の虫干しの際に紙魚は全滅させたつもりでしたが、どうやら生き残っていて、今この時に妖紙魚に変異したようです」
 災禍は険しい顔で頷いた。
 本を食べる虫、紙魚
 体長は1センチくらいで、フナムシのような姿をしたそれは、銀色の鱗で光ることから雲母虫(きららむし)とも呼ばれている。
 妖紙魚はその紙魚が魔性の本に挟まれているうちに自然変異したものと言われていて、滅多に見ないことからその実態も謎に包まれている。
 分かっているのは、紙を食べなくなったかわりに、その魔性の本に五年、十年と潜み続け、次に本を開いた人間の耳から脳に入り込んで、その記憶を食べてしまうということだ。
 一説には魔性の本が自らを読ませないように、ブービートラップとして紙魚を利用するためとも言われている。
 元の紙魚とは違って、動きは信じられないほど素早く、空まで飛んで、本を開いた人間が目で追うことは殆ど不可能らしい。
 舞も話には聞いたことがあったが、本物の妖紙魚も、それが潜んでいる魔性の本も見たことはなかった。しかし対処法は知っている。
「すぐ退治しましょう」
「もちろんです」
 知らずに本を開いてしまうとやっかいだが、逆に言えば本を開かなければ妖紙魚は出てこない。それが潜んでいる本ごと焼くのが最も確実とされていた。
 しかし、災禍は舞に驚くべきことを要求してきた。 
「七瀬様、紙の結界で私ごとあの本棚を包んでいただけますか?」
「どうするんですか?」
「本棚を開けて、妖紙魚が潜んでいる本を開きます」
「でも、そんなことをしたら閉じ込められた妖紙魚が災禍さんを」
「はい。襲ってくるでしょう。それを撃ち落とします。魔性の本とはいえ、ふうまに伝わる大切な宝、焼くわけにはまいりません。しかし万が一にも若様を危険にさらすわけにはいきません。ですから紙の結界内で私が始末します。どうかお願いします」
 言葉は丁寧だが、有無を言わさぬ口調だった。舞は口から出かけた反論の言葉を飲み込んでいた。
「分かりました。でも念のためこれを。妖紙魚は耳から脳に入るそうです。もしものときに災禍さんを守ってくれるはずです」
 舞は紙気の力を使って、災禍の両耳にぺたりと紙を貼り付けた。妖紙魚がどれだけの力を持っているかは分からないが、僅かなりともその侵入を防いでくれるだろう。
「ありがとうございます」
「ふうまさんは起こしますか?」
 舞はそうも尋ねてみた。災禍の答えは想像できたけれども。
「若様のお休みを邪魔するほどのことではありませんから」
 舞が想像した通りの言葉が、想像したよりもずっと素敵な微笑みとともに返ってきた。それで舞の気持ちも固まった。
 災禍は黒い本棚に近づき、懐から鍵を取り出して、その扉を静かに開けた。
「では、お願いします」
「いきます。紙気・防衛陣“封絶”」
 舞は常に持ち歩いている忍法用の短冊の束を放った。
 短冊はぱっといったん広がってから、災禍ごと本棚を一辺3メートルくらいの箱状に包み込むように、隙間なくびっしりと張り付いた。
「災禍さん、これでいいですか?」
「申し分ありません」
 災禍が紙箱の中から答えた。少しの緊張も感じられない。
 紙なので光を全く通さないということはないが、中は相当に暗いはずだ。ただでさえ動きの速いという妖紙魚をあの暗がりで捕らえられるのだろうか。そもそも武器も持たずにどうするのだろう。
 そんな舞の心を読み取ったかのように災禍が言った。
「ご心配なく。私にはふうまの眼と、それにこの足がありますから」
 災禍は本棚から一冊の本を取り出すと、躊躇うことなくそれを開いた。
 次の瞬間――。
 舞には何も見えなかったが、災禍の右脚が鋭く跳ね上がり、ピシッという微かな音が聞こえた。妖紙魚の気配が消えていくのが分かった。
「終わりました」
「え? もう倒したんですか?」
「敵の出どころが分かっていて、紙の結界内で私にだけ向かって来るとなれば撃ち落とすのは簡単です。もう紙を解いてくださって大丈夫です。ありがとうございました」
「は、はい」
 あまりの手際の良さに呆気にとられつつ、舞は紙の結界を解いた。
 凄まじい蹴りの風圧で生成りのパンツがボロボロになっている。その隙間から黒光りする足が見えた。
「鋼鉄の足……」
 そこで初めて舞は、災禍がサイボーグの義足をつけていたことを知ったのだった。
 それで蹴り潰された妖紙魚はもう影も形も見えない。
「ちょっと着替えて参ります」
 災禍は一礼して、何事もなかったかのように、一階への階段を上がっていった。
「本当にすごい人……」
 今日読ませてもらったどんな本よりも驚く舞だった。

 

 災禍が着替えて戻ってきた後は、本の修繕の続きをして、それがすんだら二人でお茶とお喋りを楽しんだ。
 『七瀬様』というのもやめてもらい、普通に名前を呼んでもらって、こないだの本の調査のこととか、今までにやった任務のこととか、大人っぽいお化粧のコツなんかも聞くことができた。
 それからちょっと気になっていたことも確認してみた。
「もし違ってたらごめんなさい。ひょっとして災禍さん、私とふうまさんがお付き合いしてるとか思ってませんか?」
「違うのですか? 若様がここに女性を連れてくるのは舞さんが初めてですから、私はてっきりそうなのかと……」
 災禍は意外そうな顔をする。ああ、やっぱり誤解してた。
「違います違います。全然そんなことありません。ただのお友達です。いえ、ただのって悪い意味じゃなくて、ごく普通のお友達ってことです。だからその付き合うとかどうとかは全然。あの、すいません」
 なぜか最後に謝ってしまう。
「申し訳ありませんでした!」
 災禍はまた気の回しすぎに赤面していたが、舞は誤解が解けて一安心だった。
「それで若様とお付き合いしている方はいるのでしょうか?」
 躊躇いがちに災禍はそうも聞いてきたが、舞は「いないとおもいます」とだけ答えておいた。
 災禍は残念なような、ほっとしたような顔をしていた。

 

「ふああ、よく寝た」
 ふうまが目を覚ましたのは、もう夕方にもなろうという頃だった。冬眠が終わった熊のようにのっそりとソファから身を起こす。身体にかけてもらっていたタオルケットが床にずり落ちた。
「あ、ふうまさん、起きたんですね」
「え? 七瀬さん? ――ああ、そうか。来てたんだっけ? ごめん、寝てた」
 寝起きでまだぼんやりしているふうまに災禍が眉をひそめる。
「若様、女性をほったらかしにして居眠りなんて失礼の極みです。それにいくらなんでも寝すぎです。もうこんな時間ですよ」
「ごめんごめん。なんか寝ちゃってさ。七瀬さん、悪かったね」
「いえ、私はゆっくり本を読ませてもらいましたし、災禍さんとお喋りもできましたから」
「そう? ならよかったけど……。災禍、これかけてくれてありがとう。あれ? なんでさっきとズボンが変わってるんだ?」
 床に落ちたタオルケットを拾って災禍に渡しながら、ふうまが尋ねる。
「少し汚れたので着替えました。それがなにか?」
「いや、別にいいけど……」
 ふうまは怪訝そうな顔をしたが、さすがに寝ている間に妖紙魚が出たことなど分かるはずもない。
「若様が寝ている間、舞さんと楽しい時を過ごさせていただきました」
 災禍はちょっぴりすまし顔で「女同士の秘密ですからね」と言いたげに舞にウインクした。
 それはドキッとしてしまうほどチャーミングだった。

 

(了)

 

 

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【制作後記】

 ブログに初めて小説を載せてみた。

  七瀬舞と眞田焔のイベント「ファイアー&ペーパー」の後日談だ。

 時期的には、やはり舞が登場しているイベント「期末試験とうさぎの対魔忍」よりは前にあたる。

 もちろん非公式だ。

 アクション対魔忍で舞のイベントを見たら、デートの待ち合わせで舞が一人で喋るだけという内容が良かったので、こっちも舞視点でなにか書きたくなったのだ。

 冒頭で舞が読んでいた「カヴァレリア・ルスティカーナ」は実在していて、意味は「田舎の騎士道」。

 対魔忍関係で大阪出張したさいに、古書街『阪急古書のまち』に寄り道して見つけ、タイトルの意味もわからないまま、なんとなく買った岩波文庫だ。

 読んでみたら、フランダースの犬の最終回が延々と続くような、かわいそうな話が目白押しで、それが妙に魅力的だったので、舞にも読んでもらった。

 神田の万惣フルーツパーラーは残念ながらなくなってしまった。ホットケーキももう食べられない。昔行った懐かしさも込めて、対魔忍世界ではまだ残っていることにした。

 また気が向いたら、勝手に小説なりシナリオなり書いて載せるかもしれない。

 ではまた。