「十二人の怒れる男たち」観劇


今年初めての芝居見物。
俳優座劇場プロデュースの『 十二人の怒れる男たち 』
法廷物の代名詞とも言える作品で、ヘンリー・フォンダが主演した映画、『十二人の怒れる男』は何度も見ている。
芝居で見るのは初めてだ。


お話は、ある殺人事件の陪審員に選ばれた十二人が、その評決に至るまで一つの部屋で延々と討論しつづけるというのもの。
場面は陪審員室だけ、十二人も最初から最後までみな出ずっぱりという、会話劇の妙を楽しむものといえる。
見るこちらも、ストーリーは隅から隅まで頭に入っているので、目の前で行われる役者の生の演技を楽しみにしていたのだが、いまひとつ乗り切れなかった。


理由はいくつかあるが、脚本がほぼオリジナルそのままということが大きい。
舞台はアメリカで、時代ははっきりしていないが、最初のテレビドラマ版が1954年だから多分そのくらいなのだろう。
十二人の陪審員たちのやりとりを通して、人種や年齢、職業や出自、階層などに対する偏見や差別が浮き彫りになっていくのが醍醐味なのだが、脚本がそのままのわりには、演じる役者の全員が全員、現在の日本人、見る側もそうなので(外国人がいないと確かめたわけではないが)、ところどころで引っかかってしまった。


たとえばこんな場面。
陪審員の一人がどこかからの移民者で、討論の中である陪審員が彼らに対する差別意識をむき出しにするという箇所があった。
芝居では、その陪審員が移民であるという説明もないまま、別の陪審員が差別発言の段になっていきなり「おまえら移民の連中は」云々とわめき出す。
見ている方は、そこで初めて「ああ、あっちの人は移民なんだ」と気づく。
これは辛い。


アメリカでやる場合は、移民者の役はそれっぽい人が演じるのだろうし、言葉にそれっぽい訛りなどもいれて、特に説明がなくても「ああ、彼は移民者だ」と把握できるのだろう。
ただ、役者が全員日本人で、全員標準語を喋っている状態でそれは不親切だ。
差別発言でもめ出す前に、一言でいいから「あの人は移民者だ」ということを示しておいてくれれば、それ以前の発言も差別意識に根付いたものだと感じられるのに、後説じゃもったいない。


他にも、ある陪審員が自分の見た映画について話をしているとき、二本立ての映画を見たとは一言も言ってないのに、彼を追求する他の陪審員が何の疑問もなく「二本目の映画は?」などと聞いている。
なんで二本立てが前提よ?
当時のアメリカでは映画は二本立てが当たり前だったのかもしれないが、一言、「二本立て」って断っても罰は当たるまい。
そういった、現在の日本人が舞台でやると「あれ?」って思うところがちょこちょこ出てきて、もったいない気がした。


もう一つ、このお話、議論が白熱して、キャラが激高する場面が何度も何度もあるのだが、その怒っているところが、どうにも芝居臭く感じてしまった。
口では「貴様、なんだその言い方は!」みたいなことを叫び、相手につかみかかろうとまでしているのだが、なんだろうなあ、段取り通り怒った演技をしているって印象で、それがちょっと残念ではあった。
ヘンリー・フォンダの映画を見過ぎたせいで、誰が何を言われて怒り出すかあらかじめ分かってるのがまずかったのかもしれない。


今ひとつすっきりしなかったので、その映画を久しぶりに見直すことに決めた。


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