日本人にとって、電車は誰もいない「外」ではなかろうか

日本人にとって、電車は部屋だ

日本人は、電車を、部屋のようなイメージでとらえているのかも知れないと、そのときかんがえた。そうでなかったら、寝ないんじゃないかなあ。

電車の中がリラックスできるというのは同感だ。
創造的なこと――私の場合はエロゲネタだが――を考える空間としても良い。
企画やストーリーがいまいちまとまらなくて、通勤途中にボーーッと考えていたら、ポンと良いアイデアが出てきたというのは一度や二度ではない。


ただ、その電車が部屋のようなイメージかというと、少し違う。
電車は、紛れもない「外」の空間だ。
しかし、自分以外に誰もいない「外」というのがイメージに近い。
言い換えるなら、公共の空間には違いないが、そこで求められている役割を殆ど果たさなくてよい、楽な場所とでも言おうか。


Wikipediaによれば、公共とは、こうある。

私(private)や個(individual)に対置される概念で英語のパブリック(public)を翻訳した言葉である。ここで注意しなければいけないのは、公共とは私や個と相反するものではなく相互補完的な概念であるということである。例えば、村に一つの井戸を村人総出で掘って共同利用することは、きわめて公共性の高い活動であり、結果として、個人にも私人にも恩恵をもたらす。しかしそのことが個人で井戸を私有することを否定するわけではない。個人私有よりも共同所有の方が合理的だという個々人の合意が形成されてはじめて、共同井戸が成立するのである。

なるほど、私や個との相互補完か。
エロゲで例えると、夜這いがごく普通の習慣の村がある。夜這いには作法があって、それを守っている限り、男も女も誰と寝ようが問題なし。子供が生まれた時は、誰の子種かに関わらず家の子供として育てる。そうすることで個々の性的欲望を満足させつつ、狭い村での交配の多様性を保っている。村の外から来た主人公がやりまくっても全然OK。むしろ外の血だから歓迎されちゃう……みたいな。ちょっと違うか? まあいいや。


話を戻そう。



ほんとうの意味での「公共圏」には、見知らぬ他者が流動的に存在しているわけだから、そこではつねに、予想できないアクシデントが発生することになる。

確かに。
ただ、電車の中ではその見知らぬ他者との関わりが最小限に抑えられている。
利害関係だって最初からはっきりしている。
『目的地に行きたい、その邪魔をするな』だ。
それだけ守ってくれれば問題ない。
大抵の人はそれを守っている。
さらに、諸外国に比べれば日本はまだまだ安全だから、予想できないアクシデントもあまりない。
そんな状況が当たり前になると、やがて他者が大勢いるにも関わらず誰もいないのと同じになり、とても楽な公共の空間になるということではないだろうか。


逆に、誰もいない「外」でなくなると、外ではごく当たり前のことでも居心地が悪くなる。
例えば、電車で知り合いの姿を見つけた時、
「話しかけた方がいいのかな? でも、あっち気づいてないみたいだしな。いや待て、実は気づいてる? それで無視したとか思われたら嫌だよな。てか、乗って来んなよ。ああ、面倒くさい、寝てるふりしよ」
などと考えなくてもいいことを考えたりする。


さらには、『目的地に行きたい』という利益を損なわれると、普通以上に腹を立ててしまう。
良い例が、線路に下りられたお客様が――云々といって止まるあれだ。
アナウンスが流れた瞬間の空気。
憎しみで人が殺せるなら、電車にいる全員分で即死間違いなしだ。


電車は、誰もいない「外」。
痴漢も、他の人間を意識していないのだろうか。
ターゲットは、自分以外で電車内にたった一人いる生身の女。
その女を密室でいたぶる感覚……なのかな?