「夜の来訪者」観劇 〜台詞と、台詞の間について〜

今年初めて芝居を見てきた。
シス・カンパニー公演の「夜の来訪者」
主演は段田安則で、本作では初の演出もやっていた。
他に岡本健一、坂井真紀、八嶋智人高橋克実、梅沢昌代、渡辺えり、が出演。


原作は、英国の劇作家、J・B・プリーストリーが、1946年に発表した戯曲「インスペクター・コールズ」(An Inspector Calls)
それを、日本の劇作家、内村直也が設定を「戦後の日本」に置き換え、『夜の来訪者』として翻案している。
プルーストリーの原作は1946年、翻案版の初演ですら1951年。
半世紀以上前の古典だ。
話は知っていたが、劇として見るのは初めてだ。


時は、昭和四十年代。
ある夜、実業家の秋吉(高橋克実)は、娘の千沙子(坂井真紀)と、有力者の息子である良三(岡本健一)との婚約を、妻の和枝(渡辺えり)や、息子の兼郎(八嶋智人)とともに祝っていた。
そこへ、一人の警察官、橋詰(段田)が現れる。
ある一人の貧しい女性が自殺したというのだ。
誰もが身に覚えのない話だったが、橋詰は彼女と家族ひとりひとりとの関わりを追求し始める。
一人の女性の死をきっかけとして、誰にも知られていなかった家族の秘密が暴かれていき、今まで信じていたもの、幸せが壊れていく。
彼女を殺したのは誰なのか。
誰が悪いのか。


――とまあ、そんな話。
台詞のやりとりが中心のサスペンスだ。
舞台をイギリスから日本に変えたための不自然さがあったり、キャラクターがテーマを大上段から語り出すような古くささはあったが、いっけん幸せそうな家族の仮面が剥がされていくやりとりはスリリングだった。


惜しむらくは、娘の千沙子を演じた、坂井真紀の台詞回しがいまひとつだったということ。
やたらと早口なのはそういうキャラだからいい。
ただ、前のキャラがしゃべり終わるといつもすぐしゃべり出し、台詞の間がずっと一緒に感じられたのは残念だった。
ここで言う台詞の間というのは、あるキャラが喋り終わってから、次のキャラが喋り出すまでの空白のことで、これが一本調子だった。


つまりこういうことだ。
誰かと話すとき、人は言われた言葉を耳で聞いて、その言葉によって何らかの思考や感情が生まれ、その結果として次の言葉を口にしている。
当たり前だ。
だから、考えたことや気持ちによって、台詞の間はいくらでも変化する。
同じ台詞のやりとりであっても、その間によって受ける印象は全く違う。
例えば、

「オビワンから父親のことは聞いておらんだろう」
「知ってるさ、お前が殺したんだ」
「お前の父はわしだ」
「嘘だ」

かの有名な「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」から、ルークとダース・ベイダーとのやりとりだ。
ダース・ベイダーが実はルークの父親であったという衝撃的な場面なのだが、本編ではダース・ベイダーが「お前の父はわしだ」と言ってから、ルークが「嘘だ」と言うまでかなりの間がある。
ルークにとっては、もう寝耳に水、想像もしていなかったことなのだろう。
それが台詞の間に現れている。


ところで、もしルークが間髪入れずに「嘘だ」と答えていたら、どうなっただろう?
シーンの印象は違ってくるはずだ。
ルークは、心のどこかでダース・ベイダーが自分の父親であるかもしれないと感じていた。
だが信じたくない。だから即座に否定した。
そんな印象が生まれるかもしれない。


つまり、キャラの心情を表現するためには、台詞を言うことと同じくらい、台詞を言わないこと、つまり台詞の間が大切になる。
ここでポイントなのは、この台詞の間はキャラにとってはその時の感情から当然生まれてくるものだが、演じる役者にとってはそうでないということだ。
上の例で言うなら、ルークにとっては「お前の父はわしだ」というのは衝撃の告白だが、演じるマーク・ハミルにとっては百も承知の内容である。*1
その百も承知の台詞を受けて、心底驚いたように演じるのが役者だ。


劇作家の平田オリザは、その著書「演技と演出」の中で、相手からの台詞をまるまる聞くのではなく、その台詞に対してどうリアクションするか、どう台詞の間を取るかを考えることを重視している。
また、役者の条件として、
『日常の様々な動作を、意識して、自由に組み合わせて、何度でも新鮮な気持ちで演じることができる』
ことをあげている。
つまり、練習で何度となく繰り返し喋り、舞台が始まれば本番でも喋ってきた、本人にとっては分かりきった台詞をいかにキャラとして自然に表現できるか、そこで役者の力量が問われるというわけだ。


余談だが、漫画『ガラスの仮面』で、主人公の北島マヤがライバルの姫川亜弓に絶対的に劣っているのが、この「何度でも新鮮な気持ちで」の部分だと思う。
劇中劇、『奇跡の人』において、マヤは毎回違うヘレンを演じ、そのたびに違う感動を観客に与えたのに対し、亜弓は同じヘレンを演じ続け、観客の反応もほぼ変わらなかったとの描写がある。
逆に言えば、天性の勘からくる瞬発力で演技するマヤには、同じヘレンを何度でも新鮮な気持ちで演じ続けることは難しかったかもしれないということだ。


話を戻して、この台詞の間がもっとも効果を発揮するのが、舞台演劇だろう。
映画、ドラマ、アニメなど、構図があってカット割りがある映像メディアでは、台詞の間以上にそれら映像演出が演出に大きく関わってくる。
台詞の間が同じであっても、それがロングの止めで流されるのと、一方からもう一方へのナメのバストアップと、台詞ごとにアップを切り替えるのとでは、まるで違う。
エロゲにいたっては、そのシステム上、作り手が台詞の間をコントロールするのはかなり難しい。
舞台演劇だけが、その時その瞬間の、リアルタイムの台詞、その間を表現でき、それを観客も感じることができる。
しかも、同じ舞台は一度としてないはずだ。
そのあたりの緊張感、リアルタイムの演技のすごさを味わいたくて、劇場に足を運んでいる。


そういう意味で、「夜の来訪者」で坂井真紀の千沙子は演技は上手く、十分に魅力的な千沙子なのだが、誰かの台詞を受け、何らかの感情にしたがって喋ったという感じがせず、どこか「練習してきたとおりにちゃんと演じてます」という印象があって、それが少し残念だった。
もとがイギリスの戯曲で、いかにも翻訳調の、日本語として不自然な台詞が多かったせいもあるだろう。
あるいは、初演出の段田安則がそこまで演出しきれなかったせいかもしれない。
ま、なんでもいい。


ともあれ、最後のゾクリとするどんでん返しなど、久しぶりの芝居は十分に楽しかった。
これで花粉症の季節でなければ、最高だったのだが。


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*1:実は、撮影時、ダース・ベイダーは「お前の父はわしだ」とは言っていなかった。そのへんのエピソードはWikipedia-ダース・ベイダーを参照