志の輔らくご in PARCO 2010 鑑賞


今年も行ってきた。
毎年、渋谷PARCOで一月に公開される「志の輔らくご
志の輔師匠の落語は機会を見つけては行っているのだが、PARCOのそれは規模が段違いでいつも楽しみにしている。
大舞台での趣向を凝らした一ヶ月公演。
しかも、普通の独演会などとは違って、前座もなしに師匠が三つの噺をやってくれる。
チケットを手に入れるのは一苦労だが、ファンとしては行かないわけにはいかない。


今回の演目は以下のとおり。

身代わりポン太
踊るファックス 2010
中村仲蔵


一つめの「身代わりポン太」。
富山県のある村で、地域活性化ために進められてきた「たぬきの里プロジェクト」が、流行の事業仕分けのあおりで予算を凍結されてしまった。
そのおかげで、プロジェクトの目玉のたぬきの形をした展望台がまだ半分、キンタマのぶらぶらする下半身しか完成していないのに残ってしまい、予算がないので解体することもできず、さあどうしようと関係者が右往左往するお話。
きっとこれが今年の新作なのだろう、初めて聞いた。
時事ネタをうまく盛り込んで、大いに笑わせてもらった。
会場のロビーには、たぬきの置物がしっかり飾られていた。



二つ目の「踊るファックス 2010」。
「2010」がないものは、何年か前に初めてPARCO落語に行ったときにやっていた演目で、生で見るのは二度目だ。
当時買ったパンフレットには台本まで掲載されていたので、お話はよく知っている。
それでも大笑いした。
やっぱり落語は、「何をやるか」じゃなく、「誰がやるか」だ。
台本と照らし合わせてみると、大枠は同じでも所々で変わっている。
サゲも変えてきたし、大舞台ならではのギミックも面白い。
当時の新作が年月を経て、熟成されていた。


休憩を挟んで、三つめは「中村仲蔵
PARCO落語では、最後は古典なのが定番だ。
江戸時代の歌舞伎役者に、中村仲蔵という人がいる。
歌舞伎において、「名人仲蔵」と言われるほどの名優である。(中村仲蔵 (初代) - Wikipedia
彼がまだ成り上がりの一役者にすぎなかった頃、当時は端役だった「仮名手本忠臣蔵・五段目」の定九郎を周囲からの嫌がらせで割り当てられ、それにめげることなく斬新な解釈で演じきるまでのお話。
その時演じた定九郎は、現在まで続く定九郎スタンダードになっているという。
元ネタの「仮名手本忠臣蔵・五段目」のお話やら、当時の状況やらを知らない観客のために――はい、知りませんでした――ちゃんと説明してくれるところがありがたい。もちろん、笑いを交えて。
テンポ良く笑わせてくれた前の二本とは違い、古典の人情話をじっくりと楽しませてもらった。
全部の噺が終って師匠がもう一度挨拶に出てきたとき、「中村仲蔵は一時間二十分もやっていた」というのを聞いて、会場全体に「えっ、そんなにやっていたの?」というどよめきが広がったのが印象的だった。
みな時間を忘れて、聞き惚れていたのだ。


いい落語だった。また行きたいものだ。

「十二人の怒れる男たち」観劇


今年初めての芝居見物。
俳優座劇場プロデュースの『 十二人の怒れる男たち 』
法廷物の代名詞とも言える作品で、ヘンリー・フォンダが主演した映画、『十二人の怒れる男』は何度も見ている。
芝居で見るのは初めてだ。


お話は、ある殺人事件の陪審員に選ばれた十二人が、その評決に至るまで一つの部屋で延々と討論しつづけるというのもの。
場面は陪審員室だけ、十二人も最初から最後までみな出ずっぱりという、会話劇の妙を楽しむものといえる。
見るこちらも、ストーリーは隅から隅まで頭に入っているので、目の前で行われる役者の生の演技を楽しみにしていたのだが、いまひとつ乗り切れなかった。


理由はいくつかあるが、脚本がほぼオリジナルそのままということが大きい。
舞台はアメリカで、時代ははっきりしていないが、最初のテレビドラマ版が1954年だから多分そのくらいなのだろう。
十二人の陪審員たちのやりとりを通して、人種や年齢、職業や出自、階層などに対する偏見や差別が浮き彫りになっていくのが醍醐味なのだが、脚本がそのままのわりには、演じる役者の全員が全員、現在の日本人、見る側もそうなので(外国人がいないと確かめたわけではないが)、ところどころで引っかかってしまった。


たとえばこんな場面。
陪審員の一人がどこかからの移民者で、討論の中である陪審員が彼らに対する差別意識をむき出しにするという箇所があった。
芝居では、その陪審員が移民であるという説明もないまま、別の陪審員が差別発言の段になっていきなり「おまえら移民の連中は」云々とわめき出す。
見ている方は、そこで初めて「ああ、あっちの人は移民なんだ」と気づく。
これは辛い。


アメリカでやる場合は、移民者の役はそれっぽい人が演じるのだろうし、言葉にそれっぽい訛りなどもいれて、特に説明がなくても「ああ、彼は移民者だ」と把握できるのだろう。
ただ、役者が全員日本人で、全員標準語を喋っている状態でそれは不親切だ。
差別発言でもめ出す前に、一言でいいから「あの人は移民者だ」ということを示しておいてくれれば、それ以前の発言も差別意識に根付いたものだと感じられるのに、後説じゃもったいない。


他にも、ある陪審員が自分の見た映画について話をしているとき、二本立ての映画を見たとは一言も言ってないのに、彼を追求する他の陪審員が何の疑問もなく「二本目の映画は?」などと聞いている。
なんで二本立てが前提よ?
当時のアメリカでは映画は二本立てが当たり前だったのかもしれないが、一言、「二本立て」って断っても罰は当たるまい。
そういった、現在の日本人が舞台でやると「あれ?」って思うところがちょこちょこ出てきて、もったいない気がした。


もう一つ、このお話、議論が白熱して、キャラが激高する場面が何度も何度もあるのだが、その怒っているところが、どうにも芝居臭く感じてしまった。
口では「貴様、なんだその言い方は!」みたいなことを叫び、相手につかみかかろうとまでしているのだが、なんだろうなあ、段取り通り怒った演技をしているって印象で、それがちょっと残念ではあった。
ヘンリー・フォンダの映画を見過ぎたせいで、誰が何を言われて怒り出すかあらかじめ分かってるのがまずかったのかもしれない。


今ひとつすっきりしなかったので、その映画を久しぶりに見直すことに決めた。


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フィクションにおける処女の話

最近、Twitterでフィクションに出てくる処女について話す機会があった。
その場のノリでつらつらと喋っていたら、今まで作ってきた作品の根底に流れるテーマのような話になったので、ここにまとめておく。
なお、Twitterのログをまとめるのには、「発言ステータスURL or STOT形式からのTwitterログまとめ」のサイトを使わせていただいた。

アナタカタリ
@katari_anata
 そういえば、いわゆる処女厨と言われる人達の気持ちがちょっとは分かる、とか言ったらやっぱり気持ち悪がられるんだろうか。好きな相手が処女だったら嬉しいって思うのは男だったら当たり前だと思うんだけれど――それを相手や周囲に押し付けるかどうかは別問題で。(2009-07-30 21:56:28) link
アナタカタリ
@katari_anata
 むしろ、処女信仰自体が気持ち悪いっていうより、処女信仰しちゃうほど二次キャラ好きになっちゃってるのが気持ち悪がられてるのかな、とかも思うんだけど、多分違うだろうなぁ(2009-07-30 21:57:06) link
アナタカタリ
@katari_anata
 個人的には、現実の女性相手にも、二次キャラ相手にも、そこまでいっちゃうほど相手を好きになる、という感覚を抱いたことがないから、むしろそういったエネルギーに敬意を抱いてしまう。(2009-07-30 21:58:47) link
そのだまさき
@masaki_sss
 @katari_anata 三次なら「へえ、そうなんだ。そりゃ嬉しいな。でもちょっとプレッシャーがかかる」くらいですけど、二次ではそこにこそこだわりたいですね。(2009-07-30 22:02:57) link
アナタカタリ
@katari_anata
 @masaki_sss ですよね。というか、女性には嫌がられるだろうけど、男性の『処女信仰』って、特定の恋愛対象がいない場合においては常態だと(2009-07-30 22:05:35) link
アナタカタリ
@katari_anata
 @masaki_sss 途中で送るミス>< 常態のように思ったりもして。そういう欲求というか、要求というかに、それを満たすための媒体がなるべく沿うようにするのは、ある程度は当たり前ではあると思ったりもします――もちろんそれを押し付けるつもりは毛頭ないですがw(2009-07-30 22:07:29) link
アナタカタリ
@katari_anata
 あ、そういえば、僕は自分の書いた作品で何度かエロシーンを書いたことがあるけれど、処女ってほぼいないなぁ――自分的には、むしろ昔に誰かを好きでいた人が、今の主人公に流されて、というような流れにもの凄くぐっとくるのが強いと思うw(2009-07-30 22:09:10) link
アナタカタリ
@katari_anata
 ま、その周りで発現している問題の本質は、処女信仰そのものでなく、その表現の仕方が問題なのは重々承知なんですけどね――だからこそ、処女信仰そのものが槍玉にあがっちゃうのはどーかなー、と思う次第でもあるけれど。(2009-07-30 22:10:45) link
そのだまさき
@masaki_sss
 @katari_anata 分かります。ただ個人的にはちょっと違って、あくまでもフィクションって前提で、その中の特定の対象だからこそ、処女であることの意味があるように思ってます。(2009-07-30 22:11:03) link
アナタカタリ
@katari_anata
 @masaki_sss ですねー。やっぱり、ヒロインと主人公のつながりがとても綺麗な形で描ける。その綺麗さは、現実を体験してる人からすれば失笑ものなんでしょうけれど、だからこそ綺麗だってところもあるというか。(2009-07-30 22:14:06) link
アナタカタリ
@katari_anata
 処女信仰は、なんというか、少なくとも作品の中で相手のことを思いやることを前提に成り立ってるの。だから、みんなもみんなのこと、思いやってて欲しいな――誰なんだこれは(2009-07-30 22:19:03) link
そのだまさき
@masaki_sss
 @katari_anata >むしろ昔に誰かを好きでいた人が……。そこです。すごくナイスなポイントです。つまり昔、誰かを本気で好きになって、その人に処女を捧げた子がいたとしますよね。(2009-07-30 22:17:50) link
そのだまさき
@masaki_sss
 @katari_anata で、その子が自分のことを好きになったと。その子にとってセックスするってことは、ずっと恋愛関係が続くことをなんも保証しないわけです。だって、現に処女を捧げた人と別れてるんだし。(2009-07-30 22:22:33) link
アナタカタリ
@katari_anata
 @masaki_sss ですねー。好きっていう、どっちかっていうと本能的というか肉体的なな感情から、愛するっていう、ちょっとだけ高度な精神的なものへの過程というか――(2009-07-30 22:26:42) link
アナタカタリ
@katari_anata
 もちろんその過程で明らかなズレガ生じてしまったりした場合には――ですけれど。(2009-07-30 22:27:10) link
そのだまさき
@masaki_sss
 @katari_anata リアルだと当たり前の話で、むしろ付き合い続ける選択と、別れる選択を常にぐらつかせながら、近づいたり遠ざかったりして仲を深めるのが恋愛の醍醐味だったりするんですが。(2009-07-30 22:24:35) link
そのだまさき
@masaki_sss
 そういうやりとりは楽しい反面、辛くもあるんですよね。たまには「ずっと一緒にいようね」っていうのを無条件に信じていたかったりするわけで。(2009-07-30 22:26:57) link
そのだまさき
@masaki_sss
 せめてフィクションでくらい永遠の愛を楽しみたいなあと。ハッピーエンドのその先は書けないわけですから、もしかしたらこの子と別れるかもって不安はいらないです。それはリアルで十分楽しめるので。(2009-07-30 22:29:55) link
そのだまさき
@masaki_sss
 そのための担保が、フィクションにおける処女って感じですかね。処女を捧げてくれたんだから、この先も大丈夫だって安心感。これです。(2009-07-30 22:31:32) link
アナタカタリ
@katari_anata
 @masaki_sss なるほどです。と、納得しながら、皆が皆そういう楽しみ方出来るなら平和だろうなぁ、と思ったりもしましたw(2009-07-30 22:31:37) link
そのだまさき
@masaki_sss
 とかなんとか書きつつ、学生ものの恋愛話で「ずっと一緒にいようね」とか書きつつ、「大人になったら別れちゃうんだろうなあ」と考えてる自分がいて、我ながらちょっと嫌です。(2009-07-30 22:33:26) link
アナタカタリ
@katari_anata
 恋愛の永続を知覚ための担保が処女、かぁ――なるほどなぁと思いつつ。この処女を他のパーツで埋められるのなら何か新しいものが出てきそうだなぁ、とかとちょっと考えてみる――(2009-07-30 22:33:33) link
アナタカタリ
@katari_anata
 そういえば、主人公やヒロインの死亡というのも、またある意味で恋愛の永続性のファクターだろうなぁ、と思う。ただこちらはそう感じてくれる層が処女という要素に比べ狭いだろうけれど。(2009-07-30 22:39:07) link
アナタカタリ
@katari_anata
 恋愛ではなく愛というのをテーマにするのであれば、ファンタジーで、人間との性交渉によって体や記憶を失いながら卵になって、孵って、性交渉を交わした男性に育てられていく――というような話は素敵だな、と思ったりする。(2009-07-30 22:41:26) link
アナタカタリ
@katari_anata
 非処女だけれど、常に処女のような恋愛を『させられてしまう』女性の話は考えたことがある――でも結局これは非処女を題材としたものとちょっと違うだろうしなぁ(2009-07-30 22:43:48) link
そのだまさき
@masaki_sss
 @katari_anata 彼女にとって、処女喪失より意味のある「初めて」になるのかな? 初めて絶頂、初めてアナル、初めて墜ちる……等々。調教ゲーでおなじみです。逆に、エロいことは何でも経験済みだけど、愛だけは知らない女ってパターン。(2009-07-30 22:45:04) link
アナタカタリ
@katari_anata
 @masaki_sss んー、でもやっぱりそれって違う意味での処女性ですよねー。前に処女奪われてるのなら、『より何度の高い処女』を奪うことで、というような――処女でないこと自体を中心に据えたお話で、綺麗なものって考えられないかなぁ(2009-07-30 22:47:45) link
そのだまさき
@masaki_sss
 @katari_anata より難度の高い処女、まあそういうことになっちゃいますね。フィクションとして盛り上げるためには、この人は今まで愛した他の人とは決定的に違うっていうのを書きたいところで、「初めて」ってのは一番手っ取り早い記号だと。(2009-07-30 22:53:50) link
アナタカタリ
@katari_anata
 んー、どっちかっていうと、非処女を前提の置くと、やっぱり『恋愛は永遠じゃないだろうけれど、それでもいい』というような、諦観というか達観というかの話になっていってしまうんだろうか――それでも、こんなにも。あなたを思う心は綺麗です、というような。(2009-07-30 22:52:29) link
そのだまさき
@masaki_sss
 @katari_anata そこを作中で「綺麗」と表現するかどうかは作者の趣味になりそうですね。個人的には「綺麗でもなんでもない。だが、それがいい」ってノリが好きです。(2009-07-30 22:57:44) link
アナタカタリ
@katari_anata
 @masaki_sss なるなる。その辺りは実際の恋愛経験の量も出てくるかもですねw 僕は――というのは言わずもがなだと思いますがw(2009-07-30 23:01:46) link



 以上。
 こうして見ると、自分で書いてるくせに、主人公とヒロインとのハッピーエンドを信じてない節がある。
 それで思い出したが、ずいぶん昔に「恋愛のゴールとエロゲのハッピーエンド」というエントリでも似たようなことを言っていた。

童貞をこじらせた以上はその克服のための困難は死ぬまで続く
 童貞というのは、ついつい交際に持ち込めた時点がゴールだと勘違いしがちです。そんな莫迦なはずがない。モテから見れば、交際開始がスタートですよ。でも童貞、とくに非モテはそれをゴールと思い込みやすい。

 エロゲは基本的にそこをゴールにしてるな。特に純愛物。
 なんだかんだあって告白し、間髪入れずにHシーンに突入。で、エピローグ。
 下手するとエピローグは結婚式だったりして、主人公は「ずっと君のことを愛し続けるよ」とか呑気なことを言っている。良くあるパターンだ。
 現実では、交際開始がスタートというのは全面的に同意するが、ファンタジーとしての恋愛を楽しむ上では、「ついに恋人になった」「Hできた」という達成感がピークになったところで物語を終えるのが無難なのだろうと思う。

「夜の来訪者」観劇 〜台詞と、台詞の間について〜

今年初めて芝居を見てきた。
シス・カンパニー公演の「夜の来訪者」
主演は段田安則で、本作では初の演出もやっていた。
他に岡本健一、坂井真紀、八嶋智人高橋克実、梅沢昌代、渡辺えり、が出演。


原作は、英国の劇作家、J・B・プリーストリーが、1946年に発表した戯曲「インスペクター・コールズ」(An Inspector Calls)
それを、日本の劇作家、内村直也が設定を「戦後の日本」に置き換え、『夜の来訪者』として翻案している。
プルーストリーの原作は1946年、翻案版の初演ですら1951年。
半世紀以上前の古典だ。
話は知っていたが、劇として見るのは初めてだ。


時は、昭和四十年代。
ある夜、実業家の秋吉(高橋克実)は、娘の千沙子(坂井真紀)と、有力者の息子である良三(岡本健一)との婚約を、妻の和枝(渡辺えり)や、息子の兼郎(八嶋智人)とともに祝っていた。
そこへ、一人の警察官、橋詰(段田)が現れる。
ある一人の貧しい女性が自殺したというのだ。
誰もが身に覚えのない話だったが、橋詰は彼女と家族ひとりひとりとの関わりを追求し始める。
一人の女性の死をきっかけとして、誰にも知られていなかった家族の秘密が暴かれていき、今まで信じていたもの、幸せが壊れていく。
彼女を殺したのは誰なのか。
誰が悪いのか。


――とまあ、そんな話。
台詞のやりとりが中心のサスペンスだ。
舞台をイギリスから日本に変えたための不自然さがあったり、キャラクターがテーマを大上段から語り出すような古くささはあったが、いっけん幸せそうな家族の仮面が剥がされていくやりとりはスリリングだった。


惜しむらくは、娘の千沙子を演じた、坂井真紀の台詞回しがいまひとつだったということ。
やたらと早口なのはそういうキャラだからいい。
ただ、前のキャラがしゃべり終わるといつもすぐしゃべり出し、台詞の間がずっと一緒に感じられたのは残念だった。
ここで言う台詞の間というのは、あるキャラが喋り終わってから、次のキャラが喋り出すまでの空白のことで、これが一本調子だった。


つまりこういうことだ。
誰かと話すとき、人は言われた言葉を耳で聞いて、その言葉によって何らかの思考や感情が生まれ、その結果として次の言葉を口にしている。
当たり前だ。
だから、考えたことや気持ちによって、台詞の間はいくらでも変化する。
同じ台詞のやりとりであっても、その間によって受ける印象は全く違う。
例えば、

「オビワンから父親のことは聞いておらんだろう」
「知ってるさ、お前が殺したんだ」
「お前の父はわしだ」
「嘘だ」

かの有名な「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」から、ルークとダース・ベイダーとのやりとりだ。
ダース・ベイダーが実はルークの父親であったという衝撃的な場面なのだが、本編ではダース・ベイダーが「お前の父はわしだ」と言ってから、ルークが「嘘だ」と言うまでかなりの間がある。
ルークにとっては、もう寝耳に水、想像もしていなかったことなのだろう。
それが台詞の間に現れている。


ところで、もしルークが間髪入れずに「嘘だ」と答えていたら、どうなっただろう?
シーンの印象は違ってくるはずだ。
ルークは、心のどこかでダース・ベイダーが自分の父親であるかもしれないと感じていた。
だが信じたくない。だから即座に否定した。
そんな印象が生まれるかもしれない。


つまり、キャラの心情を表現するためには、台詞を言うことと同じくらい、台詞を言わないこと、つまり台詞の間が大切になる。
ここでポイントなのは、この台詞の間はキャラにとってはその時の感情から当然生まれてくるものだが、演じる役者にとってはそうでないということだ。
上の例で言うなら、ルークにとっては「お前の父はわしだ」というのは衝撃の告白だが、演じるマーク・ハミルにとっては百も承知の内容である。*1
その百も承知の台詞を受けて、心底驚いたように演じるのが役者だ。


劇作家の平田オリザは、その著書「演技と演出」の中で、相手からの台詞をまるまる聞くのではなく、その台詞に対してどうリアクションするか、どう台詞の間を取るかを考えることを重視している。
また、役者の条件として、
『日常の様々な動作を、意識して、自由に組み合わせて、何度でも新鮮な気持ちで演じることができる』
ことをあげている。
つまり、練習で何度となく繰り返し喋り、舞台が始まれば本番でも喋ってきた、本人にとっては分かりきった台詞をいかにキャラとして自然に表現できるか、そこで役者の力量が問われるというわけだ。


余談だが、漫画『ガラスの仮面』で、主人公の北島マヤがライバルの姫川亜弓に絶対的に劣っているのが、この「何度でも新鮮な気持ちで」の部分だと思う。
劇中劇、『奇跡の人』において、マヤは毎回違うヘレンを演じ、そのたびに違う感動を観客に与えたのに対し、亜弓は同じヘレンを演じ続け、観客の反応もほぼ変わらなかったとの描写がある。
逆に言えば、天性の勘からくる瞬発力で演技するマヤには、同じヘレンを何度でも新鮮な気持ちで演じ続けることは難しかったかもしれないということだ。


話を戻して、この台詞の間がもっとも効果を発揮するのが、舞台演劇だろう。
映画、ドラマ、アニメなど、構図があってカット割りがある映像メディアでは、台詞の間以上にそれら映像演出が演出に大きく関わってくる。
台詞の間が同じであっても、それがロングの止めで流されるのと、一方からもう一方へのナメのバストアップと、台詞ごとにアップを切り替えるのとでは、まるで違う。
エロゲにいたっては、そのシステム上、作り手が台詞の間をコントロールするのはかなり難しい。
舞台演劇だけが、その時その瞬間の、リアルタイムの台詞、その間を表現でき、それを観客も感じることができる。
しかも、同じ舞台は一度としてないはずだ。
そのあたりの緊張感、リアルタイムの演技のすごさを味わいたくて、劇場に足を運んでいる。


そういう意味で、「夜の来訪者」で坂井真紀の千沙子は演技は上手く、十分に魅力的な千沙子なのだが、誰かの台詞を受け、何らかの感情にしたがって喋ったという感じがせず、どこか「練習してきたとおりにちゃんと演じてます」という印象があって、それが少し残念だった。
もとがイギリスの戯曲で、いかにも翻訳調の、日本語として不自然な台詞が多かったせいもあるだろう。
あるいは、初演出の段田安則がそこまで演出しきれなかったせいかもしれない。
ま、なんでもいい。


ともあれ、最後のゾクリとするどんでん返しなど、久しぶりの芝居は十分に楽しかった。
これで花粉症の季節でなければ、最高だったのだが。


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*1:実は、撮影時、ダース・ベイダーは「お前の父はわしだ」とは言っていなかった。そのへんのエピソードはWikipedia-ダース・ベイダーを参照

「ある種の男女関係に関する言葉」について考えてみた



「母娘丼」の対義語ってなんだろう-「情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明」より


まずは、「穴兄弟
複数の男が一人の女とやっちゃうこと。
もちろん、3Pとかそういう話じゃない。


この手の用語のバイブル『性語辞典』で、「穴兄弟」を引いてみると、
「好んで穴兄弟の契りを結ぶ人もいますが、普通はいやがります。特に弟になるのを避けます。(木村和久『平成の歩キ方』1992)」
とある。


兄か弟か、誰もが気になるところだ。
ananの調査によると、

経験人数は減少し1人エッチは増加中 ananのセックス特集
■経験人数は減少の傾向に?
1人…19% 1位
2人…15% 2位
3人…9%
4人…15% 2位
5人…8%
6人…9%
7人…3%
8人…4%
9人…3%
10人以上…15% 2位

平均人数5.2人

5人のうち1人くらいは兄だ。
逆に考えれば、5人落とせば晴れてキミもお兄さん……なのか? 余計、当たりが減りそうな気もするが。
まあいい、エロゲならほぼ全員当たりだ。


穴兄弟」の反対が「竿姉妹」
何人かの女が、一人の男と寝ている状態。
エロゲでいうと、複数同時攻略といったところか。
やはり、『性語辞典』をひもといてみると、同じ意味で「穴二つ」というのが載っていた。
人数によって、穴三つ、穴四つ……と増えていくのだろうか。


ところで、竿姉妹と言うと、どことなく女の方が積極的な印象がある。
じゃあということで男に頑張ってもらうとすると、これが「○人斬り」って言葉に変わる。
もちろん、アレを刀にたとえているわけだが、刀より銃のアメリカでは「○人撃ち」とか言ったりするのだろうか? 分からない。
ただ、少なくとも銃は関係しているようで、「出来ちゃった婚」のことを、「shotgun marriage」と言うらしい。
銃は撃ってもいいが、当てたらダメということだ。


さて、「○人斬り」の反対語、つまり女が積極的に男とやりまくってる言葉としては、「○人抜き」というのがある。
今ならただのヤリチンにビッチだが、もっと性がおおらかだった昔は、これらも一つの尊称だったのかもしれない。
例えば、『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」に、こんなことが書かれている。

私の在所では若衆が女の百人斬り、女が男の百人抜きを基準にしていた。千人になると盛大に祝宴を開いて、「千人供養」をしたそうである。ほんまかいな、と疑ったら、色々と事例を教えてくれた。金、鉄、木製などの巨根を正面に飾り、前に女陰形の大朱盃を供え、参列者の前には大根や山イモで作った男根女陰を供え、僧尼が厳粛に読経、終わって無礼講ということらしい。

なんとまあ、すごい話だ。
無礼講の中身については言及がないが、当然「次の千人いってみようか」ってことになったんだろう。参加したい。


さて、話を戻して、「情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明」さんが気にしていた
・一人の女が父親と息子と関係している
・一人の女が兄と弟と関係している
この関係についてだが、これらを指す言葉は『性語辞典』にもなかった。
ただ、女は男を「抜く」のだから、ここはひとつ「親子抜き」「兄弟抜き」と言ってみるのはどうだろう?
あるいは、「筆おろし」になぞらえて、「親子おろし」「兄弟おろし」とか。


また、これらの場合







なんて呼べばいいんだ。誰か教えてください。

一番目は、やった男よりも、やられた男女の関係がポイントになる気がする。
全くの無関係であれば、普通に「両刀使い」。
二人に血がつながっていれば、「父子斬り」「母子斬り」「兄姉斬り」「姉弟斬り」……等々。
「○人斬り」に比べて、わかりにくいのが難点か。


二番目は、要はサンドイッチの具で、真ん中が女になるプレイならエロゲでもよくある。
これが男となるとなかなか難しいが、ここはひとつ矢印を大切に考え、「レゴブロック」ってのはどうだろう?
なぜレゴブロックかはここでは語らないが、
「俺、A男とB子のレゴブロックなんだぜ」
あまり言いたい台詞ではないのは確かだ。



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star楽しめる、読む“性語”辞典
starもう少し関連語を引きやすくして欲しい
star日本語の奥の深さにビックリ

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バクマン 1巻 感想 「現実とフィクションが交差する現代版まんが道」

 最近、ジャンプは雑誌の方はまったくフォローしていないが、気になったので購入する。
 デスノートの、大場つぐみ(原作)×小畑健(漫画)による新作だけあって、さすがに面白い。
 デスノート同様、ハイテンポのストーリーもさることながら、このバクマンという漫画、文が書けるシュージンこと秋人(あきと)と、絵が描けるサイコーこと最高(もりたか)とがコンビを組んで漫画を作るという物語で、その作品自体が大場つぐみ小畑健のコンビによって作られているという現実との対比が興味深い。
 作り手もそれをアピールしたいらしく、各話の間に、実際に大場つぐみが作った原作ネームと、それを元にした小畑健の作画ネームが載せられている。


 漫画の原作といった場合、台詞とト書きで書かれたシナリオ形式と、ページごとのコマ割りまで描いたネーム形式とが一般的だ。
 バクマンは後者のネーム形式だが、かつては前者のシナリオ形式が主流であったようだ。
 たとえば、漫画原作といえばこの人、「子連れ狼」や「クライングフリーマン」などを手がけた小池和夫の原作は、このシナリオ形式で書かれている。
 他に、バクマン本編でも言及されていたが、「あしたのジョー」や「巨人の星」などの梶原一騎は、小説形式で原作を行っていたらしい。
 いずれにしろ、漫画原作といえば文章のみで書くのが当然だった。


 というよりも、原作者がネームまで描くのは一種のタブーであったようだ。
 このあたりの事情は、実際に原作者であった竹熊健太郎氏のブログに詳しい。

『バクマン。』のネーム原作について(たけくまメモ)
マンガのネームは、映画やドラマでの「絵コンテ」に相当するプロセスでありまして、脚本ではなく「演出」に関わる部分だからです。つまり、ネームを切る(書く)人がそのマンガの監督になるわけですね
(中略)
作者側から出した企画の場合、原作者はシナリオだけではなく、最終的にどんなマンガになるのか、少なくともネーム段階までには関わりたいと考えるのが自然な心理ですが、ネーム作りはマンガ家と編集者の聖域になっていましたので、かつてはなかなか難しかったわけです。

 例として出された映画やドラマ、さらにはアニメでは、監督が脚本家の書いたシナリオを絵コンテにするとき、台詞を直したり、場面の前後を入れ替えたり、場面自体を削ったりと、演出方針に基づいた様々な変更を行う。
 つまり、シナリオはあくまで元になるものでしかなく、ストーリーも含め最終的な決定権は監督にある。それがルール。
 まあ、それで脚本家がどう思うかは別の話だが。
 三谷幸喜は、『振り返れば奴がいる』のシナリオを現場で勝手に直された経験をもとに、ラジオドラマの生放送で主演女優のワガママからシナリオを変更してしまい、そのつじつま合わせのためにスタッフが右往左往するコメディ、『ラジオの時間』を書いたりしている。


 ともあれ、シナリオ形式、ネーム形式の違いこそあれ、漫画でも原作は作品の元になるものであることに変わりはないようだ。
 バクマン作中でも、漫画担当のサイコーがこんな風に言っている。

 もちろん絵にする時 構図は俺が考えるし、コマ割りもそうとう直す
 描こうと思える 元だよ元

 面白いのは、ここでサイコーが「台詞を直す」とは言っていないのと同じく、小畑健も基本的に台詞は弄っていないことだ。
 その一方で、コマ割り、構図についてはかなり大胆な変更を加えていて、「ストーリーは大場つぐみに任せた。自分はそれを絵で見せることに専念する」という、監督としての小畑健の方針がうかがえる。


 また、原作者がネームを書くことにたいするタブー感も、昔とは変わってきているようだ。
 やはり、作中でサイコーが

 自分の話にあったネームを描くんだ
 文章だけで原作ですって言うなら、小説家になるか他の奴と組んでくれ
 言ったよな
 俺が納得できるネーム描けなきゃ組まない

 と言っていることから、タブーどころか『ネームを描けてこそ原作』という、漫画担当としての確固たる考えが読み取れる。
 これは、週刊少年ジャンプとしての方針でもあるのか、同誌が開催している漫画賞「ストキン炎」では、原作としてネームを募集している。
 しかし、これが集英社全体の方針というわけでもなさそうなのがまた興味深く、週刊ヤングジャンプの「新原作大賞」では、書式はシナリオ形式のみときっちり指定されている。


 さて、二人の少年がコンビを組んで漫画家を目指すと聞いて、藤子不二雄の『まんが道』を思い出さない漫画好きはいないだろう。
 バクマンは、まさに現代版まんが道なのだが、主役の二人、サイコーとシュージンが最初から才能にあふれているのが、いかにも今風に思えた。
 一応、徹夜で絵の練習をしたりと、努力もしているようなのだが、その努力している場面自体はあまり描かれず、努力して疲れたという結果だけが示される。
 結果と言えば、才能があるために、その努力の結果すらすぐ現れてしまう。
 その上で、さらに前向き。
 藤子不二雄の「まんが道」で、主人公の満賀が、才野に比べて自分はなんてダメなんだとウジウジしつつ、泥臭く努力していたのとは対照的だ。*1
 で、お互いに「こいつ才能がある。すごいすごい」と褒めあっている。
 クラスの奴がみんな馬鹿に見えるとか言い出すあたり、なんとも生暖かい目線になってしまうが、それはもう自分がこの漫画のメインターゲットではないオッサンだからだろう。
 それに、つらいつらいまんが道を読みたいのなら、「漫画家残酷物語」があるし、ネットには「邪宗まんが道」という大作もある。


 ともあれ、バクマン一巻は、二人でようやく第一作を書き上げ、さあジャンプに持ち込みに行こうというところで終了。
 二人だけの狭い世界で、すごいすごいと言い合っていたサイコーとシュージンがどうなるか、続きが本当に楽しみだ。


 最後に漫画家に必要な三大条件というのを、本編から引用しておく。

その1 うぬぼれ
その2 努力
その3 運
※ただし、天才じゃない場合

いや、まったくその通り。


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*1:もっとも、実際の藤子不二雄はあの手塚治虫に「とんでもない子達が現れた……」と恐怖心・ライバル心を抱かせたほどの才能があったわけだが

絶対可憐チルドレン 15巻感想

最近の少年コミックで、唯一買い続けているシリーズ。


数話単位で完結する話の繰り返しで、大きなストーリーを続けていくのは、「GS美神 極楽大作戦!!」のころからの椎名高志のスタイルで、延々バトルが続いていくジャンプスタイルよりも趣味に合っている。


皆本が子供になってしまう「オーバー・ザ・フューチャー」が出色の出来だった。
以前に、チルドレンが大人になってしまう話があったが、それと対になっている。
心と体が子供に戻ってしまった皆本は、大人と子供とではなく、同じ子供としてチルドレンと触れあい、現実にはかなえられなかった「楽しい子供時代」を体験する。
子供のままでいたいと願う皆本を、その皆本によって成長してきたチルドレンが、今までのお礼をするように、つらい現実に導こうとするくだりが素晴らしい。
「皆本が子供にならなくても、あたしたちが大人に追いつくから」
本当の意味で子供から大人になろうとする、チルドレンの成長ぶりも併せて描かれている。


椎名高志の構成のうまさが光る、小学生編のラストにふさわしい一品。
締めの一コマ、卒業式のチルドレンが可愛すぎる。


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